史実艦の見分け方に関するメモ

間違ってても責任持てません
メモ:
昭和10年 = 1935年
昭和15年 = 1940年

妙高型

第一次改装(1932〜1936)、第二次改装(1938〜) https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14151450189

 famoushero7さん 2015/10/1514:13:46
 妙高は艦橋最上部の6m測距艤と94式方位盤射撃指揮装置は分離
 那智は3.5m測距艤のみ
 
 mamachari_yasuさん 2015/10/1511:54:27
 「丸」1987年2月号の付録より、昭和15年のデータで「那智」と「妙高」は後櫓の形状が違います。
 信号灯等灯類が後櫓の前に付いているのが「那智」、後ろに付いているのが「妙高」です。
 
 ついでに後櫓の大きい艦が「羽黒」「足柄」、小さい方が「那智」「妙高」。
 「那智」「妙高」と同様信号灯類が、前に付いているのが「羽黒」、後ろに付いているのが「足柄」です。
 
 ただし、「那智」と「羽黒」、「妙高」と「足柄」は同じ付き方ではありません。
サイズ\信号灯後櫓の後後櫓の前
小さい妙高那智
大きい足柄羽黒

日露戦役以来の帝国軍艦の発達 (上・中・下)

神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 軍事(国防)(49-176)
大阪毎日新聞 1940.5.26-1940.5.28 (昭和15)

日露戦役以来の帝国軍艦の発達 (上・中・下)
海軍造船少佐 山口宗夫

(上) 『三笠』は英国製 我国最初の建艦『筑波』 あす・海軍記念日

 「隔世の感がある」という言葉があるが、わが軍艦の場合においても、まことに過去三十五年の年月は、戦術的にも技術的にも遥かな隔たりを生じて、日本海海戦に働いた軍艦と、今日の軍艦では別の世のものという感が深い。
 ちょうど三十五年前の五月二十七日に東郷元帥は旗艦三笠に坐乗せられて、敷島、富士、朝日、春日、日進の新鋭艦より成る第一戦隊を直率して敵の艦隊を一挙に殲滅されたのである。
 然し今日これらの軍艦の大きさ、勢力、戦闘距離を顧みると、三十五年の歳月の短かくなかったことを感ぜざるを得ない。
 これらの艦の中、日進、春日はイタリーで、他は皆英国で設計され建造されたもので、当時の英国としては造船技術の最高水準を以て製造したのである。
 中でも三笠は最新式のもので、明治三十四年竣工、排水量一万五千トン、速力十八ノット、三十センチ砲四門、十五センチ砲十四門、魚雷発射管四門舷側の防禦甲鉄は厚さ二十三センチで、当時最新「クルップ」甲鈑であった。
 これが大体三十五年前の戦艦を代表する数字である。戦争後日本に到着した香取、鹿島の二艦は基本計画は日本で行われたのであるが、やはり英国製であった。
 
 ところが戦争中八島、初瀬の二艦が敵の機雷に触れて沈没した事件があり、これを契機に軍艦を日本で造ることの必要性は益々切実なものとなって、遂に筑波が内地で建造せらるることとなった。
 何しろそれまでは四千トン位の軍艦しか造ったことのない日本の技術家が一躍約一万四千トンもある装甲艦を造ることになったのだから、その苦心も我々の想像に絶するものがあった。
 筑波の設計は攻撃力と速力に重きを置いて防禦を犠牲にするというやり方で、主砲は三笠と同じだが、速力は二ノット半も速く排水量は却ってやや小となっておる。
 つまり巡洋艦の高速に戦艦の大砲を附け加えた形となり、いわゆる巡洋戦艦の先駆をなしたものである。
 続いて生駒、伊吹、鞍馬が建造されたが、特に伊吹は今までになかった「タービン」機関を初めて採用し、同型の鞍馬よりも一ノット半の高速を出して成果を挙げたのである。
 これから漸次能率の悪い往復動機関がすたれて「タービン」に移って行ったのであるが、現代のような大馬力の機関は「タービン」でなければ企ておよばないことである。
 
 さて次に現れたのが薩摩と安芸である。明治四十二、三年の竣工で、これに至って排水量は二万トン近くなり、大砲は三十センチ四門、二十五センチ十二門、つまり主砲ともいうべき大砲を十六門もずらりと並べて
 当時の英国新戦艦の上を行ったもので、大艦巨砲主義の先駆者とでもいうべきものである。これが出来る時は横浜の外人間で、うまく進水するかどうかということについて賭けが行われた等という話が伝わっておる。
 そんな眼でわが国の工業力が見られた時代に、これをやってのけた先輩の苦心と、完成した時の得意のほどがうかがわれるのである。
 次には巨砲主義をさらに徹底させて、三十センチばかりを十二門も積んだ艦が設計された。これが河内、摂津の二艦であって、残念なことには英国がこの後に設計した三十センチ十門の艦の方が
 工業力の差で先に竣工し「ドレッドノート」と称して大口径砲単一主義のトップを切ったのである。なおドレッドノートの特徴は、艦の中心線上に大部分の大砲をならべて、左舷にも右舷にも射てるようにしたことである。
 この主砲配置法は、自後各国のならうところとなって、世界にはドレッドノート時代が現出し、スーパードレッドノート等と称する大型艦にまで進んだ。
 但し大口径砲のみという主義は後に改められ、日本の進んだ地道な副砲併用主義に還ったのである。どうしても駆逐艦、水雷艇のような襲撃部隊を撃退するためには、射撃速度の速い手ごろの副砲が入用なのである。
 
 次に日本として現代戦艦の時期に第一歩を印した記念すべき艦が生れた。それは金剛である。この艦型は排水量二万七千五百トン、大砲は三十六センチ八門、速力は二十一ノットという高速で、
 砲の大きさからいっても、速力からいっても、断然世界のトップを切ったのである。速力が速いので当時巡洋戦艦と呼ばれていたものである。
 しかしながら、この艦は技術輸入の意味を以て英国のヴィッカース社に注文され、わが国からは多数の技術者が監督官として向うに滞在した。
 この艦は大正二年わが国に回航されたが、これを以て輸入軍艦に最後のピリオドを附したわけである。
 これと同型の比叡、榛名、霧島も殆ど同時に内地で建造中であったので、大正四年には同艦型四隻が、その雄姿を太平洋に浮べることが出来た。
 また速力は右の四艦に劣るが、砲力においてはその一倍半即ち三十六センチ十二門、防禦もずっと強化された型が大正四年から七年にかけて竣工した。これが即ち扶桑、山城、伊勢、日向の四艦である。
 これでずっと列国をリードし来ったわが国は、次に欧洲大戦の戦訓を取入れ、四十センチ八門、速力二十三ノットとい世界最強の長門、陸奥を完成して気を吐いた。
 これが戦艦八隻、巡洋戦艦八隻即ち八八艦隊計画の最初の二艦である。長門型は砲力が世界に冠絶したばかりでなく、その他にも新機軸を出した。
 中でも外見上の特異点として、楼式マストは振動の少いその構造とともに世の注目を惹いた。当時欧米各国は欧洲大戦の後を受けて、おのおの大艦を建造中であったが、遂に大正十年のワシントン会議となったのである。
 当時の列国の建艦状況を顧みると、四十センチ砲を有する艦で竣工しておるのはわが長門、陸奥の二隻および米のメリーランドのみで、他の建造中のものは別表の通りであった。(写真は軍艦三笠)


(中) 航母の出現 華府会議後の情勢

 ワシントン会議においては、遂にわが国の戦艦保有量を、英米の六割に制限した、というより、むしろ日本の建艦を禁止して、英米の建艦をわが国の六分の十まで認めしめたのである。
 その際日本の建艦計画は勿論、進水済の土佐は廃棄せしめられ、加賀、赤城は主要兵装を除いて航空母艦となったのである。すでに竣工した陸奥も廃棄を強いられたのであるが、
 わが国がこれだけは譲らなかったので、これを口実として更に英は二隻新造、米は建造中の四十センチ搭載艦三隻を保有する権利を取ることとなった。
 殊に英の二隻はそれから設計に着手したので、昭和二年になって漸く完成した。これがかのネルソンおよびロドネーである。
 かくして一時主力艦の建造は中休みの状態となったが、新たなる軍拡時代となって、列国は再び主力艦の建造に着手し、その最初のものとして伊のリットリオはすでに竣工し、英米独仏の第一艦も今明年中に完成せんとしておる。
 次に話を航空母艦に移して見よう。飛行機が軍用に駆使されはじめたのは、前回の欧洲大戦末期であって、軍艦にこれを載せて移動飛行場にしようという着想は勿論それ以後のことである。
 はじめは英国あたりで、他の艦種から改造して造っていたが、はじめから航空母艦として造られたのはわが鳳翔が最初で大正十二年の竣工である。次の年になって英のヘルメスが竣工している。
 日本の航空母艦は、最初は飛行甲板に何ら突起物のない平坦型から出発しているのが特異点である。
 次いでワシントン条約により、戦艦として用いられなくなった赤城、加賀が大型の航空母艦として更生した。これは米のレキシントン、サラトガに相当するものである。
 続いて我が国には巡洋艦型の航空母艦竜驤が出来た。今まで航空母艦の用法およびこれが設計に関しては、各国とも幾分模索的なものがあったが、段々その方向も定まって来て、米国が初めて航母として
 設計したレーンジャーの竣工、これに続くわが蒼竜の完成で、一定の軌道に乗った感がある。自後英米でも航母の建造が続いているが、すべて同じ形式を継承している。
 巡洋艦の発達もまた最も興味深いものの一つである。日露戦争以後今日まで出来たものは全部国産であって、隻数三十九隻、排水量合計約二十三万トンである。
 まず明治四十三年から四十五年までに出来た利根、筑摩、平戸、矢矧は今は現役を離れているが、筑摩から初めてタービンを用いたのは特記に値する。
 次いで大正に入って八年に出来た天竜、竜田は排水量三千二百トン、十四センチ砲四門、魚雷発射管六門で速力は平戸級の二十六ノットから一躍三十一ノットとなって近代的巡洋艦の先駆をなしたものである。
 この二艦は今なお健在で活躍しておる。この型を大きくして十四センチ砲を七門に増し発射管も八門としたのが、次に現れた球磨級、長良級および那珂級のいわゆる五千五百トン型十四隻である速力も三十三ノットになっておる。
 ここに注意して欲しいのは、速力に伴う馬力の増加で、天竜級の三十一ノットから球磨級の三十三ノットに僅か二ノット上げるために、馬力は五万一千馬力から九万馬力へと一跳びに約八割の増加を来しておることであって、
 これに伴う機関の増大、そうして排水量の増大と如何にその犠牲の大なるかが窺われるのである。
 さてその型は、大正十四年竣工の神通をもって最後とするが、それより先大正十二年に、劃期的な豆巡洋艦が完成した。
 即ち大正十年ごろは、わが国の主力艦建造が八八艦隊の目標に向って一路邁進を続けていた最高潮の時代であって、そのために大いに建艦費の節約が痛感せられていた。
 そこで前述の五千五百トン級と同様の兵装と速力を持って出来るだけ小さい艦を造らなければならぬということで出来上ったのが豆巡洋艦の夕張である。
 この艦は見ずの抵抗を少くして馬力を節約するため、艦の構造を最も能率的にして、出来るだけ細長く造り、大砲は中心線上に重ねて、神通と同じく片舷十四センチ六門を利かせる如くし、
 発射管も神通の八門に対して四門であるが、中心線上にあるために片舷四射線なることは同様であって、排水量は神通の約五千二百トンに対し、夕張は二千九百トンとなり速力は同じく三十三ノットを発揮したのである。
 つまり、同勢力の巡洋艦を排水量約六割弱、建造費約六割強で造ることに成功したのであって、Remarcable-shipとして列強の注目する所となった。
 わが国では、この設計の理論を応用してさらに二十六センチ六門、発射管十二門を僅か七千百トンの排水量に盛って、速力三十三ノットの高速を出す古鷹級四隻を建造した。
 しかもこの艦型は防禦も有力であり、荒天中における凌波性も申分ないという見事な出来栄えであった。
 時恰もワシントン条約直後で、主力艦の建造はパッタリ止み、強力なる補助艦の必要が痛感された時であって、かの甲板は奇妙な波を打ち、頑丈な前檣楼、後に傾いた煙突を持って、今にも敵に飛びつきそうな鋭い姿が
 世界最初の二十センチ砲巡洋艦と名乗って出た時には大いに青い眼を見張らしめたものである。なお古鷹級は最初から飛行機を搭載して、射出機で進発せしめ得るように設計された最初の艦である。


(下) 自主的立場 我建艦に拘束なし

 さてワシントン会議の結果は、巡洋艦の排水量を一万トン以下、備砲は二十センチ以下に制限してしまったのである。
 従って主力艦を対英米六割に制限されたわが国としては巡洋艦の方で最大限度に補充しなければならぬので、直に設計に着手して、昭和三年に至りいわゆる一万トン巡洋艦那智が完成した。
 この艦型は主砲は制限一杯の二十センチで計十門、発射管は十二門、速力三十三ノットであって、古鷹級の経験による設計法を再び駆使して、
 排水量は制限一杯の一万トンに収めてなお砲弾および魚雷に対する十分なる防禦を有しておる。この型四隻に続いて昭和七年にはさらに進歩した高雄級四隻が生れた。
 ここで再びロンドン条約で縛られて重巡の建造はこれをもって休止となった。即ち日本は当時の現有勢力十二隻一〇八、四〇〇トンでおさえられたのである。
 従って米国等の如く、条約量までにはさらに建艦を要する国と違って、わが国は死活の問題であるから小型巡洋艦の方を充実することとなり、八千五百トンの最上級の現出となった。
 この第一艦竣工は昭和十年であって、小型巡洋艦として許された最大の砲十五・五センチを三連装として十五門も積み、防禦も相当有力なものとした。三連装の採用はわが国としては初めての企てである。
 さらに最新型の二艦利根、筑摩は一昨年竣工してすでに就役しておる。これに対し手英国の六インチ巡洋艦の新型は昭和十二年より、米国のそれは昭和十三年より初めて出来上りつつある。
 ここにわが国と米国の新式巡洋艦と著しい相違点は、我には発射管を多数搭載しておるに反し、彼はこれを廃止しておることである。
 次に駆逐艦を回顧して見よう。日本内地で初めて駆逐艦を造ったのは明治三十五年の春雨級で、日露戦争にこの型約四十隻が、魚雷による夜襲その他に大いに活躍したのであるが、排水量は三百四十トン程度のもので、
 発射管は二門に過ぎず、波に対しても弱かったが戦争後明治四十四年になって出来た海風級は、一躍排水量は約三倍の千百五十トンとなり発射管は四門、大砲も今までの八センチ二門が十二センチ二門と、八センチ五門となり、
 機関には初めてタービンを採用し、速力も三十三ノットとなって、わが国一等駆逐艦の先駆をなしたのである。
 その飛躍振りが非常に大きかったため、竣工当時は艦橋に立って見て、艦首までが今までに見なれた駆逐艦に比してあまりに長いので、一体これで艦が折れずに持つものかと心配したほどであるという。
 その後、駆逐艦の設計は好調に発達して、大正年代に入って製造されたものは、欧洲大戦に際して遠く地中海に武勲を輝かしたのである。
 次に特筆すべきは、昭和初年に竣工した吹雪級二十四隻で、わが国の駆逐艦中最も有力なもので、千七百トン三十四ノット、大砲十二・七センチ六門、発射管九門、俗に特型といわれ凌波性も良好で、
 その特異な姿は外貌においても、今までの駆逐艦から離れて一新期を劃したものである。その後はこの型の改良型が次々と建造されておるが、排水量はこれより減じている。
 
 さて紙面に限りがあるので、最後にわが国の自主的軍備に大いに力を与えておる潜水艦について、一瞥を与えてこの稿を終りたい。
 日露戦争の時、ロシヤはドイツより潜水艦を購入し、旅順において組立てたが不具合のため使用に至らず、日本も米国に注文したが、戦争の間に合わなかったので、お互に精神的の脅威は与えたけれども、実用せられずに終った。
 わが国の潜水艦が現代的の形態を整うるに至ったのは、欧洲大戦の後であって、その当時の独仏の潜水艦が大いに刺戟となったものである。
 その後の進歩は実に著しいものがあり、現在においては精鋭にして粒の揃った潜水艦を保有しておることはわが海軍の誇りである。
 以上述べたようにここ二十年あまりのわが建艦は、各種の条約等により拘束されて忍従の時代であったが、今では帝国はすべての建艦制限に関する条約から脱退しておるから、何等不合理な取極めに拘束されていない。
 従って我国の自主的立場において、わが国情に最も適した如何なる軍艦を設計建造しても文句の出所がないのである。
 最後に一言したいのは、優秀軍艦の建造は一国の学術及び工業力の背景なしには出来ぬことで、軍艦の構成に関与せぬ工業部門は皆無といっても過言でない位だ。
 即ち軍艦は一国工業技術の綜合力が生み出す渾然たる有機体であって国民各個の不断の精進力なくては造船家の独力のみが能くする所でないということである。

データ作成:2015.3 神戸大学附属図書館
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10176676&TYPE=PDF_FILE&POS=1&LANG=JA


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Last-modified: 2018-03-22 (木) 13:16:19 (148d)